エッセイ・コーナー  KAZUOは要りませんか?

しまむらかずおが描くつれづれ(その7)  第31話~第35話

31-35 写真
35-デキル


第35話 「デキル」        by しまむらかずお

  

「デキル奴」と「デキナイ奴」…

その違いはなんだろう。

能力、推進力、実行力、統率力…やっぱり「チカラ」かあ。

そんなチカラが乏しい奴はどうすればいいんだ。


「むむ、お主、デキルな」と相手をひるませてしまう剣豪のように

まだ太刀を合わせてもいないのに、その力を感じさせてしまうほどの

そんな雰囲気…オレにはないわあ。

そんな私が無謀にも、「私たちに出来ることは?」とか、

「あなたに出来ることを何かひとつでも」などと、呼びかけることが多い。

 

高知国体の市民運動「ひとりひとやく運動」でもそうだった。

「被災地の学校へピアノを贈る運動」のときも

今、手掛けている「3.11を忘れない」の活動もそうだ。

それは、決して一人ではできないと分かっているからだろう。

 

一人の力には限界がある。

「一人でするな・一人になるな・一人にするな」。

これまでもよく唱えて来た、自分への戒めの言葉だ。

なぜなら、一人で思いついて、一人で盛り上がり、

ぜ~んぶ一人で段取りを進めてしまうことが多かったからだ。

その結果、たとえ成功しても、それが終わってしまえば

また、ポツンと一人になる。

そういうのを、「一人よがり」って言うのだ。

 

気がついたものが始める、

デキル奴がスル…

それはまあ、当然なのだが

本当にデキル奴は、周りを巻き込んで

さらに大きな成果をものにすることがデキル奴なのである。

 

人を惹きつけ、巻き込んでゆく奴と

そうはできない奴の違いは何だろう。

するべきこと、やりたいことを見つけてしまう…そこまでは多分同じなのに

そこから先が違うのだろう。

 

一人じゃできないこと、
それも、一人でやっても意味のないこと。
それは、被災地といわれる町への支援をはじめ、

多くの人の関心を呼び

多くの人の行動があってこその事業だ。

あの大震災から4度目の春を迎えた今日

報道各社は一斉に特集を組んでいる。

「進まぬ復興」と「進む風化」が

現地の映像をバックに声高に語られている。

またもや、衝動に駆られる。

ギターを引っ提げて「そこ」に行きたい…と。

でも、私一人が行っても何の役にも立たないとも。

 

4年前の春にもそう思った。

その思いを「ピアノを送りたい」…その運動に切り替えた。

実際にその地を訪れたのは

震災の年の秋だった。

ギターは持たないで、ピアノを贈る運動のパンフと

「for EAST」のCDを提げての旅だった。

贈呈ピアノの受け入れ先の調査だった。

 

その翌年の夏

「クルック・ソングメイツ♪」の子どもたちと一緒に福島を訪れた。

今度はギターも音響設備も一緒だった。

私たちは歌った。

「被災者」と呼ばれる人たちの前で。

胸が詰まった。声がかけられなかった。

でも、彼らは実に穏やかな笑顔で迎えてくれた。

余計に胸が詰まった。

 

私の歌声は、初めて彼の地で響いた。

あの衝動から1年5カ月が経っていた。

 

先日、「3.11を忘れない高知集会」を開いた。

予想をはるかに超える120人の参加者で会場はいっぱいになった。

遠く離れたこの町では余計に「風化」が進み

淋しい集会になるのではと心配したが

本当に嬉しかったし、何だかほっとした。

諦めないでずっと続けてゆかねばとの決意を新たにした。 

来年の「5度目の春」に向けて更なる取り組みを進めて行かねばならない。

 

規模も大きくなる。風化はもっと進む。

ハードルは沢山ある。

でも、こんなにも多くの人たちが応援してくれている。

だから信じられる。きっとデキル!と。

 

「デキル奴」とは

信じて諦めない人のことをそう呼びたい。

2015.3.11

 


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コメント: 5
  • #5

    sakura (金曜日, 13 3月 2015 23:18)

    私も信じて諦めない
    一人として
    「5度目の春」に向かって
    これからも関わっていけたら
    幸せですね。

  • #4

    月のうさぎ (木曜日, 12 3月 2015 23:31)

    「デキル奴」って結局
    人に幸せや感動、やり甲斐を感じさせてあげられる人?
    一人より二人で喜んだら まさに
    嬉しさ倍増ですよね(^ ^)

    それがもっともっと人が増えたら…

    う〜ん 想像しただけで
    ワクワクしますね。

    「5度目の春」に向かって動き始めた今、
    さぁ この波に乗らなくちゃ。

  • #3

    フェアリー (木曜日, 12 3月 2015 23:14)

    何かしないでいられない

    そんなにまで、人の事を大切の思える。
    本当に真剣だから、
    そんな純粋な、真剣な思いが人を動かし、人の渦を作ったのではないでしようかね?

    やっぱり人は人でしか
    磨かれないんですよ。

    信じて諦めない人の側には、
    きっと、絶対一緒にやり遂げようと、
    心に決めた人達が居ると思います。

    「デキル奴」素敵ですね。

  • #2

    レッド (木曜日, 12 3月 2015 00:59)

    「デキル奴」、しまむらさん。
    これからも、先導の旗を振ってくださいね。

  • #1

    あっぷる (水曜日, 11 3月 2015 23:59)

    「デキル奴」とは、信じて諦めない人のこと?

    「デキル奴」とは、「デキナイ奴」の力を引き出してくれる人?

    今日のエッセイ読んで、なんだか、頭の中では、書くコメントに困ってしまいました(^^;

    とりあえず、最後の行を復唱してみました(笑)

    そしたら、なぜか、次の行を、私の指先が書いてしまいました(笑)

    …と、いうことで、「デキナイ奴」は、ここで入力を終えます。

    でも、私の小さな小さな力でデキルことがあったなら、また、お手伝いさせてくださいね。

    後になりましたが、高知集会の大盛会、お疲れさまでした。

    3.11、何ごともなく無事に一日を終えられることに感謝しながら、送信します。

    合掌です。

34-○○の為


第34話 「○○の為」     by しまむらかずお

  

「人の為って書いて、偽りって読むんだから…」

これは「劇団Kちゃんねる」の前身、「Yネット・アクターズ」、

その初作、「天地夢用」の中の台詞である。

当時は、私のコンサートがいつの間にかお芝居に移ってゆくという、

「ビルト・イン・ドラマ」と呼ぶ公演だった。

 

「Yネット」は、「やさしくなろうネットワーク」の略で、

学習・交流・表現をテーマとした活動を通じて

「優しくする人から、優しい人へ」の自己実現を目指したサークルだった。

今年で結成20年、今も社会的活動を続けている。

「被災地の学校へピアノを贈る運動」の発端もこのYネットからの提唱だった。

 

もともとは、人権学習をメインとしたサークルだったが、

そののち、「心のトレーニングセンター」や「やさしくなろう短期大学」などの公開講座を開設。

私自らがグループ・ワーカー役となって、

「人間関係」や「自分探し」などをテーマに相互学習を行っていた。

 

そんな講座の中のひとつに「お芝居をやってみよう」の科目があった。

A4ウラ・オモテの短い台本を書いて、みんなが役を替わり合ってやってみた。

みんなが面白がった。

みんなの瞳が輝いた。

それをきっかけに劇団もどきの「Yネット・アクターズ」が誕生したのだった。

その当時、その結成には、「何の為?」などという理念はなく、

ただ、「自分の為」、または、「自分探しの為」の結成だった。

その活動が社会活動的色合いを持って来たのは少し経ってからだった。

 

「情けは人の為ならず」という諺があるが、

これは、「人に情けをかけると結局はその人の為にならない。

だから、情けをかけることは良くないこと。」

…そんなふうな意味と捉えられることが多い。

それは実は大間違いで、本当の意味は、

「情けは人の為ではなく、いずれは巡って自分に返ってくるのだから、

誰にでも親切にしておいた方が良い」というのが原義とされている。

要は「人の為は、わが身の為」ということなのである。

 

「何の為に生まれて、何をして生きるのか…」

かの「アンパンマンのマーチ」で、やなせたかしは私たちにそう問いかけた。

これは、誰もが通る思春期に、自分自身に対する問いかけと同じだ。

ただ、これは一時期の疑問ではなく、いくつになっても続く問いかけだろう。

 

その゛何の為を考えずして、コトを起こすのはいかがなものだろう。

固いことを抜きにして、゛とりあえずやってしまうことが

このところ増え過ぎてはいないか。

理屈抜きは、いずれ、骨抜きになる。

自分だけのことだったら、当たって砕けろ!でもいいとしても

誰かと一緒に、または人々を巻き込んでの場合は、そうはいかない。

しっかりと、何の為に、どこまで、どのように、との明確なフローが不可欠だ。

それがないままに、「さあ、やれ!」とも、「さあ、行くぞ!」とも叫んではならない。

リーダーは、負け戦に兵を出してはならないのだ。

突撃させて、玉砕させることがあってはならない。

 

「目標照射」という言葉を社会教育の講座で学んだことがある。

何の為にという「ねらい」を定めてそれを到達目標として

そのプロセスを作り込んでゆくという実践型プログラムの手法だ。

この到達点を基準点として、現在位置からどれぐらい近づけたかというのが

評価の物差しとなるのである。

この目標到達点がないと、

単に、参加者数の大小や、盛り上がったねなどという感想のみで

成功・失敗が判断されかねないのだ。

 

イベントのチラシや要項には、その行事の趣旨は書かれていても

到達点を具体的に提示しているプログラムは少ない。

「とりあえず」への戒めを自分自身にも課したいと思う。

ともすれば、面倒なことから逃れたくなるのは私も同じだから。

 

話が固くなったが、私の頭の中は3月7日に向いている。

3.11を忘れない高知集会」のことだ。

あの東日本大震災からまもなく丸4年。

復興は進まず、風化が進む…そんな現状を心から憂いている。

同じ太平洋に面しているとはいえ、遙かに遠いこの高知で

この種の集会を行う意義、それをずっと考えて来た。

 

「被災地の学校へピアノを贈ろう」と呼びかけて、やはり4年。

昨年の夏、33台目の発送を終えて、ピアノ送達の事業を終了した。

300万円を越える募金をいただき、

各種イベントには延べ5000人を越える方々にご参加いただいた。

そのつながりをこれからもと、「3.11を忘れない・一滴の会」が再発足した。

 

この会は、せめて年に一回でも集まろう、と誕生したのだが

「何の為に」集まるのか、それがずっと不明確で、気にかかっていた。

もちろん、「あの日を忘れない為」なのだが、

それが単にあの日のショックを蘇らせる為だけなら、

わざわざ集まっていただくことでなくても、他の方法があるだろう。

無論、一同に会すること、同じ時間を共有することの意義は大きい。

が、しかし、そこで何かが生まれる、何かが育てられるものでないと

ただの同志の集いや同窓会的なものとなる。

そこに自分自身の戸惑いがあった。

 

あの日、余りに大きな被害を目のあたりにして

その町の人の為に、「何かしなければ」と、みんなが思い

小さな善意を募金箱に入れた人は数知れない。

でもあれから4年。

その思いと行動は、遠い記憶となったのではなかろうか。

ピアノを送り続けた私たちの仲間にとっては、まだまだ新しい記憶だが

その私たちでさえ、あと数年もすれば、

同様に過去の記憶となってゆくに違いない。

 

「あの日を忘れないで」…と叫んでも

「あの日のことを知らない」人たちは増えてゆく。

それは小さな子どもたちである。

これからもどんどんと、「知らない世代」は増えてゆく。

私たちは、あの時に感じた思い、見ず知らずの人への優しさや

知らない町への思いやり、行動に駆り立てられた願いなど、

それを伝え、それを育ててゆかねばならない。

 

今回の集会を、その為に…と思ったときから

その「ねらい」が明確となった。

集会タイトルの冒頭に、「子どもたちと共に」という冠を載せた。

プログラム内容も、子どもたちの出演を増やし

会場近隣の5つの小学校の児童全員にチラシを配った。

 

来年、大震災から5度目の春を迎える日にも

この、「子どもたちと共に」の集会を開くことを決意した。

今年をベースにしてさらに拡大しようと、

高知市文化プラザ「かるぽーと」の大ホールを来年3月12日に予約した。

1年かけて、様々な取り組みを続け、その「ねらい」を全うしたいと思う。

 

「○○の為に」と、目標ができると、手段が見えてくる。

目指すものがあると頑張れる。

今回の集会が、皆さんと共に、何かを生み出し、

何かを育てられる集会となることを強く願っている。

 

「アンパンマンのマーチ」は、

「何の為に生まれて、何をして生きるのか…」に次いで

「答えられないなんて、そんなのは嫌だ!」と続いている。

(2015.3.1)

 



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コメント: 3
  • #3

    ぴあの (月曜日, 02 3月 2015 14:38)

    「ねらい」を定め、目標を作り、手段を考えて、高い山を目指していくKAZUOさん。

    私も、歩きたい。

    目指す景色を、見てみたい。

    KAZUOさんと一緒に。みんなと一緒に。

  • #2

    あっぷる (日曜日, 01 3月 2015 23:52)

    KAZUOさんと初対面の時、数分後に聞いた言葉が、「人の為と書いて偽りと読む」だった衝撃を思い出しました。

    で、今、ここへのコメントを、何回も何回も書き直したけど、とうとうまとまらず、いっぱいボツにしました(^_^;)

    まだまだ自分探しの旅を続けているような微力な私ですが、KAZUOさんたちの活動にご一緒させてくださいね。

  • #1

    カノン (日曜日, 01 3月 2015 23:11)

    忘れないで夢を
    こぼさないで涙
    だから僕は行くんだ何処までも

    ああ KAZUOさんみんなの為に
    愛と勇気だけが友達さ
    (アンパンマンのマーチより)

    いえいえKAZUOさんには、
    愛と勇気と“仲間”が居ますから
    一緒に行きますよ(^ ^)

33-余計


第33話 「余計」   by しまむらかずお

  

どうしてだか、余計なことを言いたくてたまらない。

こんな自分が言っても、仕方ないことだけど

言ってやりたいし、伝えたい。

それはものすごく大事なことだと、自分では思うのだけれど

相手にとっては、多分、余計なこと。

もっと言えば、聞きたくもないことだったりする。

それがまさに、余計なこと。

 

とは言っても、具体的に

誰かに今、言いたいことがあるというのではない。

ただただ余計なことが言いたいのだ。

今がそういう気分。

 

ご存知のように

自分はそれほど、言いたいことを我慢できるタイプではない。

でも、このところ、言いたくても言わないことが多くなった。

気がついていても指摘しなくなった。

それは、「余計なことだ」と思うからである。

どうだ、少しは大人になっただろ?

 

しかし、そんなことを続けていると

ほとんど会話は弾まない。

実は、会話のほとんどは余計なことなのだから。

大事なことだけしか言わない、聞けないのは

結局は、何も広がらない。盛り上がらない。

いわば詰まらない。面白くない。

 

それでもそれでも、楽しく話をしている真っ最中に

そこにいる誰かを傷つけていたり、

そこにはいない誰かを悪者にしたりしてはいないか。

そんなことを思うと、ふっと口を小さくしてしまうのだ。

 

昨年11月に惜しくも他界した名優、高倉健は、

その昔、「男は黙ってサッポロビール」のCMで一世を風靡した。

以来、寡黙な男の見本になった。

フンだ。黙っててもかっこいい男は、黙ってればいいさ。

そうでない奴らはいろいろと努力するものだ。

良かれと思って口を出し、盛り上げようと一言を足す。

たいがいの場合、それが余計なことになる。

あーあ、どうすればいいんだ。

 

「余計」という意味を調べてみた。

広辞苑によると、こうだった。

「必要の度を越えてかえって無用なこと。むだ。無益。」

はい、そのとおりです。

が、この「必要の度」の度合いが実に難しい。

 

考えてみれば

生きるために、「必要」なものだけしか要らないのなら

芸術はどうだ。音楽はどうだ。それは余計なものなのか。

食べる、寝る、命をながらえる。

それだけならまったくつまらぬ人生になる。

余計なものは、本当は大事なものなのだ。

 

そんな余計なものを作り続けること。

それが私の今の仕事。

私の作る歌やお芝居では、腹は膨れぬ。

だけど、それらがもしも

相手の心に何かを生み出し、何かを育ててゆくのなら

「むだ・無益」なことにはならないだろう。

願わくば、私から発する余計なものが、

相手にとって必要なものであってほしいものだ。

 

話を振り出しに戻そう。

どうして今、余計なことを言いたい気分なのか。

それは多分、辺りが狭くなり、やや煮詰まっているのかも知れない。

いわば、やるべきことがいっぱいあるのに

ちっとも前に進まないからなのだと思う。

何のことはない。自分が進めてないだけのこと。

 

やるべきことばかりやってると

やらなくていいこと、言わば、余計なことをしたくなるものだ。

さあ、外へ出よう。気分を変えよう。

何を言っても構わない奴らと、しゃべり倒そう。

小さな旅に出よう。人の作ったものを見たり聞いたり味わったりしよう。

余計なことを大いにしてみよう。

もしかしたら、本当は大事なものが

そこにあるかもしれない。

2015.2.27



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コメント: 6
  • #6

    sakura (日曜日, 01 3月 2015 23:27)

    「余計」な事と言われて
    真っ先に浮かんだ事は

    よく母親に
    「まっこと また、あんたは余計な事して」
    と叱られた事。

    それは
    お茶碗を洗っていて
    誤って割ってしまった時とか‥

    確かに しなくてもいい事をして
    返って迷惑をかけたり
    後で手間を、かけさせてしまったり…

    でも、そうしようと、思った背景には
    母に楽をさせてあげようと
    思い遣りの心が働いた結果なのだ。

    愛情あっての事だと
    気付いてもらえたら
    どんなに救われた事か。

    島村さんから湧き出る
    「余計」な事は
    確かに人を、元気付けたり
    励ましたり
    やり甲斐のある仕事を
    与えたりなので
    大いに「余計」な事、
    してくださいね(^ ^)




  • #5

    Jun (土曜日, 28 2月 2015 08:08)

    かずおさんの余計なものは必要です!

  • #4

    カフェオレ (金曜日, 27 2月 2015 23:53)

    Kazuoさん、タバコを控えて、早く寝て、いつまでもお元気でいてくださいね(*^_^*)

    あ⁉︎

    余計なことやぁ(笑)

  • #3

    あっぷる (金曜日, 27 2月 2015 21:56)

    「余計」?

    「文化」を調べたことがあったのを思い出しました(^^♪

    命には必要ないけれど、生きていくのに必要なゆとり。

    音楽、美術、文学…、おやおやKazuoさん、それぞれに関わりおありですね(笑)

    あ!?

    「文化」でなく、「余計」?

    「余計」なこと?

    そういえば、余計なこと言って、よく反省するのは、アタシやぁ(^^;

    「余計」なこと?

    余計なことでも、言ってくれる相手によっては嬉しかったりしますよね(笑)

    「余計」なこと?

    おっとっと…、書き過ぎないウチに、コメントおしまいにしましょ(笑)

  • #2

    フェアリー (金曜日, 27 2月 2015 21:53)

    「余計」な事 「必要」な事
    同じ物や、事でも人によって違いますよね。
    時と場合によっても違うかも。

    でも、きっと
    必要な事しか出来ない人は
    つまらない人だと思います。

    いろいろ悩んだり、
    いろいろ「余計」な事を
    やってみたりしてる人こそ、
    一緒に居て楽しかったり、
    わくわくして

    居心地が良かったりするんじやないかな?

    「余計」な事が出来る人こそ
    心が豊かな人だと思います。

    これからも楽しみにしてますから
    宝探しの旅に
    ぜひ連れて行ってください。

  • #1

    みゅ (金曜日, 27 2月 2015 06:42)

    久々にコメントが書きたいと思うほど、共感いたしました。
    (T^T)

    どうしてだか、余計なことを言いたくてたまらない。
    こんな自分が言っても、仕方ないことだけど
    言ってやりたいし、伝えたい。
    それはものすごく大事なことだと、自分では思うのだけれど
    相手にとっては、多分、余計なこと。
    もっと言えば、聞きたくもないことだったりする。
    それがまさに、余計なこと。
    たしかに、聞きたくもないことだったり、相手にとっては、余計なこと……
    けど話して聞いてもらいたい気持ち。
    複雑ですよね。
    人間だけですよね。
    感情があり、考えて話す。
    私も、黙ってるのは好きではないので
    話したい人ですが、最近はなにかと考えて話すようになってきてます。
    そんなことをしたら、体調を崩すとか考えてたけど、意外とタフなようで……(笑)
    つまらないと思いながらも、大人へと成長しているような気もします。(笑)
    これからも、余計なことは話さず、大人へと成長していきますッッッ(`・ω・´)(笑)
    では。
    また。

32-寒いッス


第32話 「寒いッス」      by しまむらかずお

 

 

あー、サブ。

南国土佐のはずの高知でも寒いッス。

特にこの部屋は寒い。

というより土佐弁で「ショーヒヤイ」。

下が駐車スペースとなっている中二階のこの部屋。

丁度、雪道の橋の上が凍結するみたいにヒヤイッス。

 

そんな中、当の本人は

もともと細身の蓄熱機能の乏しいカラダ。

なんと、コートをはおってマフラーまで巻いて

パソコンに向かっている。

おーの、ショーヒヤイ、

 

とはいえ、スキーには行きたい。

なんてわがままなワタシ。

スキーはいい。ゲレンデはいい。

Facebookに載ってた友人のゲレンデ姿。

おーの、羨ましい。

あの真っ白い世界。

けがれた…もとい、疲れた心を、洗い流してくれるかのような真っ白な世界。

あー、行きてー。

 

スキーにはまったのは

もう30年も前。

職場のツアーに申し込んで夜行バスに乗り込み

高速道も瀬戸大橋のなかった当時

フェリーに乗り換えて海を渡り

えんえん7時間もかけて辿り着いた大山。

にわかに開いてくれたスキー教室にもロクに参加せず

ただひたすら雪と戯れた。

南国の者には雪そのものが珍しくて嬉しいのだ。

 

習ってないからすぐにコケル。

でも、スキーはコケルから面白い。

もしも絶対にコケナイなら、まったくつまらんスポーツだ。

コケそうになるところをぐっとガマンして滑ってゆくのが面白いのだ。

 

以来、このシーズンになると、腰が浮く。

金曜の夜に出て月曜の朝帰り、なんて大変な日程をもろともせず

ゲレンデに毎週のように通った。

ほうぼうに出かけた。

大山、ハチ北、氷ノ山はまだまだ近場。

長野の栂池にも八方にも行った。

北海道はニセコを皮切りに、札幌五輪の富良野やキロロ、

バブル時にできたルスツやトマムにも足を運んだ。

よくあれほど行ったもんだ。

 

四国の数少ないスキー場にももちろん通った。

古くからある美川に始まり、久万、石槌、小田深山など

ただし、これらは「雪が降ったぞ」と聞いてから行かねば滑れない。

その点、北海道はいい。

なんてったってパウダースノー。

四国のようにベッチャとはしない。

手に握っても固まらず、風に吹かれてその手には残らない。

 

それから、なんてったって、広い。

「ありゃ、コースから外れたか?」と思うほど

人っこ一人いないコースをひたすら下る。

実に雄大。

でもヒヤイのもスゴイ。

ゲレンデに立つ大きな温度計は零下16度を指している。

あり得な~い。

でも嬉し~い。

あー、行きてえー。

 

登頂リフトは、シングルが多い。

ぶら下がった柱につかまって下を見ると色とりどりのウエアが行き交う。

その姿がだんだんに遠のいてゆく。

横風が冷たくリフトを揺らす。

頂上は白くけぶっている。

そんなとき、なんでこんなことしてるんだろう、とふと思う。

縮こまって固める体に冷たい雪が吹き付け

膝にこびりつく。

まるで遭難…そうなんです。

もしもリフトがなきゃ、こんなとこまで来ないよね。

あー、ありがてぇー。でも寒いッス。

 

まもなく頂上。

身仕度を整えながら、降りる準備。

降りたらすぐさま、一気に下山だ。

吐く息も白い。

辺りも白い。

面白い。(笑)

 

寒い時には寒くないとできないことをしようではありませんか。

暑い時には暑くないとできないことをしようではありませんか。

季節に逆らわずにね。

嬉しい時には嬉しい顔をしようではありませんか。

楽しい時には楽しい顔をしようではありませんか。

自分の気持ちに正直にね。

 

それにしても今日は寒いッス。

                            (2015.2.9)

 


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コメント: 6
  • #6

    そら (金曜日, 13 2月 2015 01:47)

    スキーブーツにヴィンディング。
    そこに板が加わって、5cmぐらい足が長くなるかな。

    麓ではカラス族でも、山では派手な色のウェアに、サスペンダーで吊ったダボダボズボンが妙にかわいい。

    張りの無くなった手はグローブで、目じりのシワはゴーグルで、深くなった豊麗線はフェイスマスクで、肉付きの良くなった身体はウェアで…
    全て隠せるスキーは最高。
    ゴーグル付けたままなら別人の私。
    冬、最高。

    kazuoさん、暑い時にはなにしましょ?

  • #5

    土佐のおんちゃん (木曜日, 12 2月 2015 16:36)

    やっぱり雪山では、ガスライターよりジッポライターがベスト!

    あったか~いん♪だからぁ

    とくに氷点下時では。

  • #4

    sakura (月曜日, 09 2月 2015 23:09)

    エッセイを読みながら、
    いろんな景色かうかびました。

    氷点下16度の真っ白い世界。
    吐く息も白くて、凍てつく寒さ。

    でも 楽しい世界。

    私は数えるほどしか
    行ったことがないけれど、
    リフトで震えながら、でも
    わくわくする気持ちで上を目指して
    乗っていた時の事、思い出しました。

    人が見えないくらいの
    上級者コースを滑るんですね。
    気持ちいいでしょうね。
    カッコいいですね(^ ^)

    機会があったら
    ぜひご一緒させてください。



  • #3

    フェアリー (月曜日, 09 2月 2015 22:32)

    寒い〜 (>_<)
    でも 楽しい〜 (o^^o)

    そんなワクワク感が伝わって来ました。
    決してスキーは得意じゃないけど、
    エッセイ読んでると
    行きたくなりました。

    コケても笑えそうな気がします。
    今度こそ!
    って頑張ってると、
    暖かくなってきそうな気がします。

    そのうち、やれば出来るじゃん
    ってなったらいいな。

    行きたいな、 スキー。
    季節限定!
    この言葉に弱いんだなぁ。


  • #2

    あっぷる (月曜日, 09 2月 2015 18:52)

    KAZUOさん、スキー場14ヶ所くらい書いてましたね(笑)
    それぞれ一回ではないでしょうから、すごいですね(^^)

    寒い時には寒いことを。
    暑い時には暑いことを。

    楽しい時には、、。
    嬉しい時には、、。

    なんだか、ウンウンと頭を縦に振りながら読みました(^^)

    寒いっすでも、シブい美声の喉は大事にしてくださいね♪♪

  • #1

    ぴあの (月曜日, 09 2月 2015 17:53)

    25年前に一度行ったきりの、大山を思い出しました。
    リフトが止まってしまうぐらいの吹雪になって、滑ったというより
    滑って転んだ記憶しかありません。
    ずっと、スキーやってみたいなと思ってましたが、なかなか雪山に向かう勇気が持てず。
    「私をスキーに連れてって」くれる人募集中。

    ほんとに、寒いです。
    風邪をひかないように、気を付けてください。

31-節分


第31話 「節分」   by しまむらかずお

  

 

今日は「節分」。

文字通り、季節の分かれ目の日。

だから「節分」は4回あり、

立春、立夏、立秋、立冬のそれぞれの前日のことをいうのだが、

その中でこの春の節分の行事だけが際だっている。

 

今日、我が家の食卓には恵方巻が登場。

とは言っても、いくつにも切り分けられて皿に並んでいる。

確か太巻き一本を丸かじりして福を呼ぶという習わしのはずだが。

聞けば「食べにくいでしょ」「それに、幾種類も食べれるでしょ」とのこと。

確かに、色とりどりの太巻きが並んでいる。

でもこれじゃ、単なる巻き寿司。

イミナイジャーン。

 

それを目当てに訪れた幼きお姫様は息せき切ってこう言った。

「今日ねえ、保育園にオニが来ちょった」

「へえー、こわかったろ?」

「けんど、泣かんかった」

「そりゃあ、えらかったねえ」

「カミサマが来てアメもろうた」

「カミサマ?」

「うん、カミサマ」

 

どうやら、彼女の保育園には「福の神」も来たらしい。

「マメ、まいた?」

「うん」

そう言って、オモチャ箱の方へ去って行った。

 

その昔、私の父は畳の部屋を箒で掃いて

母はフライパンで豆を炒った。

部屋がその香ばしい匂いで満ちた頃

小さい僕は玄関の扉を開いて

「オニはぁ外」と大声で叫びながら豆を投げ

部屋の中に向いて「フクはぁウチ」と豆を投げた。

「歳の数だけ食べるんだぞ」と父の声。

一斉に豆を拾って口に入れた。

9個しか食べられない僕は、

何となく残念な気がしたことを覚えている。

ささやかな幸せがそこにはあった。

 

「鬼」とは何か、「福」とは何かはまったく分かってはいなかったが、

子どもの頃というのは、意味が分からずとも

信心深いものなのかも知れない。

母親がよく言ったのは、「そんなことしたらバチがあたる」だった。

バチとは「罰」のことだろうが

これもよくは分からなかったが、

「してはいけないこと」であることだけは分かっていた気がする。

小さな頃の私は、結構真面目に言いつけを守った。

ま、そのうちに、言いつけも守らず、バチがあたることにも無神経になったけれど。

 

多分、子どもなりに「怖いこと」への「怯え」があったのだろうと思う。

何のことはない、大人たちは子どもを怯えさせて、

言うことをきかせているだけだったのかも知れない。

その手にまんまとはまる私だった。

 

しかし、今と違って夜の闇は本当に深かった。

自然がもっと近くにあって,雨の音も風の音も虫の声も、カエルの声さえ身近にあった。

「口笛吹くと蛇が出る」などと言われると、本当に出そうな気がするのだった。

もちろんすぐに口をつぐんだものだ。

 

それにしても、怖さを知らない今の人たちは

平気で深夜を徘徊する。

このところの夜の町は明るい。

それほどまでに煌々と夜を照らさなくても、とは思うのだが

これはこれで大事なことだとは分かっている。

しかしその分、星の光に気がつかず、月の明るさを知らないことになる。

 

それと同じように、

普段気づかないところで役割を果たしているモノや人にも気づかない。

そんな人も増えたのではあるまいか。

便利になったが、情感は貧しくなった。

いいか悪いかよりも、損か得かが大事になった。

情報は圧倒的に増えたが、進むべき道は余計に見えにくくなった。

報道は細かくなったが、思いやる時間は短くなった。

そんな気がしてならない。

 

安全運転の心得は、怖さを知ることだという。

危険の予知というより、自らを律するのは怯えの心だ。

狂器にもなりうるクルマの運転は「こわがりさん」のほうがおそらく安全なのだ。

私はそれを忘れかけている。

 

「福」の意味は、今でも分かってはいないが

「鬼」はもしかしたら、自分の中に潜むものかもしれない。

やっぱり「鬼はぁ外」と叫びたいものだ。

ちなみに「鬼」も、神様の使いだそうだ。

バチには当たりたくないので、

ツミを犯さないようにしようっと。

                                                                                                (2015.2.3

 


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コメント: 4
  • #4

    土佐のおんちゃん (金曜日, 13 2月 2015 09:03)

    夜遊び過ぎて朝帰り、家にて鬼さん待ってます。

    そんな鬼さん、いつもは我が家の福の神!

  • #3

    そら (火曜日, 10 2月 2015 02:24)

    鬼は夜やってくるらしいです。
    豆まきは夜中にし、奥の部屋から順番に鬼を追い出すように、最後は玄関で撒くそうです。

    恵方巻きも豆まきも意味も考えずイベント化し、または省略化されているような現代ですが、一昔前の日本は、本気で家の中から邪気を払う気持ちで豆まきをしていたのではないでしょうか。

    kazuoさんがおっしゃるように、便利さを追い情感は乏しく、損得で事を判断したり、闇を恐れず夜中であっても世界とつながる入口をいつも掌に開けっ放し、心に衝撃を受けた出来事も情報量の多さに次の事柄で流してしまう。そんな私があります。

    鬼が来ます。
    掌から鬼が入ってきます。
    自分の中の鬼をちゃんと見つけ、
    豆はまかずとも、季節の変わり目には丁寧に追い出す作業をしようかな。
    偏らずちゃんと見れるために。

    そんなことを思いながら読ませていただきました。

  • #2

    フェアリー (水曜日, 04 2月 2015 22:16)

    えーー!恵方巻
    切っちゃったんですか⁈
    ホント意味無いじゃーん(>_<)

    私はハーフサイズですが、
    今年の吉方向に向かって
    無言のまま食べ切る!って
    子どもの頃から一貫して続けてますよ。

    幼い頃、兄妹で笑かし合いを
    しながら食べた事を思い出しました。

    笑いを堪えながら食べるもんだから
    食べ終わる頃には
    毎回 お腹か痛くなってたなぁf^_^;)

    笑いを堪えるって
    身体に良くないですね。

    今年も楽しい事が
    たくさんあります様に。
    心からいっぱい笑えます様に。
    福は〜うち (^O^)/

  • #1

    あっぷる (水曜日, 04 2月 2015 09:49)

    「鬼は〜外〜♪♪」

    保育士時代。
    若い頃は、鬼の役になって、子どもを脅かすのに頭を使っていました(笑)
    保育士時代。
    あとの頃は、「泣いた赤鬼」や「村を守った鬼」の話もして、「優しい鬼もいるんだよ。」と話したことを思い出しました(^^)

    KAZUOさんのエッセイを読んでいると、自分の過去が映像のようにフッと浮かんだり、心の琴線に触れたりすることがある気がします(^^)

    ではでは、食べやすい恵方巻きを用意してくれたKAZUOさんの家にも、「福は〜内〜♪♪」